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レビュー(Amazon.co.jp)
『葉隠』は、佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が、武士道における覚悟を説いた修養の書である。太平洋戦争時に戦意高揚のために利用され、それゆえ戦後は危険思想とみなされることもあったが、その世間知あふれる処世訓は、すぐれた人生論として時代を越えて読み継がれている。
『葉隠』は、佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が、武士道における覚悟を説いた修養の書である。太平洋戦争時に戦意高揚のために利用され、それゆえ戦後は危険思想とみなされることもあったが、その世間知あふれる処世訓は、すぐれた人生論として時代を越えて読み継がれている。
本書は、『葉隠』を座右の書とする三島が、抜粋した名句からエッセンスを抜き出し、中核をなす「死の哲学」に解釈を加えたもので、『葉隠』の魅力と三島の思想が凝縮された1冊になっている。
武士といえども藩の組織人であり、彼らに説かれた処世訓は今の企業人にそのままあてはまるものが多い。トップの決断の仕方、上司や部下をうまく操る方法、立身出世の条件、リストラの仕方、仕事の優先順位の決め方などは大いに参考になるはずだ。また三島による「準備と決断」や「精神集中」などのエッセンスは、このノウハウが小手先から出たものではなく、並々ならぬ覚悟から生まれていることを教えてくれる。ほかに恋愛論や子どもの教育論などもあり、生活全般におけるユニークな視点を見つけることができる。
三島は『葉隠』を、死を覚悟することで生の力が得られる逆説的な哲学としてとらえている。「死という劇薬」が生に自由や情熱、行動をもたらすとし、それらが失われている現代の生に疑問を投げかけている。本書が書かれたのは三島が自決する3年前の昭和42(1967)年。三島を「行動」に駆り立てた思想の一端に触れることができるだろう。(棚上 勉)
カスタマーレビュー
おすすめ度:
後半の葉隠の現代語訳が重宝する
(2008-10-02)
本書の後半に葉隠の現代語訳が付いており、それが重宝する。
日々の暮らしの中で気持ちが弱くなっているときや迷いが生じたとき、
この書を開くと奮起させられ、おのずと進むべき方向が見えてくる。
自室の本棚に常備しておきたい一冊である。
生の意義
(2008-05-26)
三島由紀夫自身が座右の書として何度も読み返したと説明があるが、処世訓として佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が書いた武士の修養の書である。生との対比に死及び死の覚悟が語られている。主君に仕える当時の武士の生き様は生半可な姿勢では勤まらず、最後には切腹など自身を取り巻く環境は現代社会と大きく隔たりがあり、如何に厳しく真摯であったのかという思いがする。常日頃より死の存在を意識することにより、一瞬の生の意義をより一層意識し認識し生きなければならないということだと解釈する。
「葉隠」から生と死を考える
(2008-01-04)
「葉隠」は若い時から三島由紀夫の座右の書であった。「仮面の告白」や「憂国」などの代表作でもしばしば死について触れているように、最後は爆発的な「純粋行動」に走り、予定調和のように死を選択し散っていった。
常に生きる事と同じくらい、死を考えて生活する。死はいつ訪れるか分からない。その際、惑う事無く、死を選択できるようでなければいけない。有名な、「武士道といふは死ぬことと見付けたり」だ。
勘定者、すなわち頭でっかちを否定している。損得勘定でいけば生を選択するに決まっているからだ。だから思想の上に立った死などというのは、自分を誤魔化しているに過ぎない。「葉隠」は純粋行動を理想としている。行動のなかに結果として、「忠」も「孝」も存在する。それが理想の形だ。
また死に際しては、美しく外見を飾らなければいけない。勇敢であることよりも、勇敢に見えることを大切と考える。首を切られても美しくあるように、切腹の際には頬と唇に紅を引いた。
三島の死に対してはいろいろ異論があるだろう。しかし三島由紀夫はこの書の最後で述べている。「いかなる死でも犬死というものはない」と。
ニヒリストの逆立ち
(2007-12-08)
「個人主義、近代主義には心理的限界がある。人間が充実した生を行き抜くには、献身する対象が必要なのだ。自分の命を捨てても守るべき価値が必要だ。でなければ動物のウゴメキと違いがなくなってしまう。「自由」こそ献身するべき究極の価値だ、と近代主義者は言う。これは倒錯した思想だ。戦争が終わり自由がもたらされた時、そこらの酒場で政治家の悪口を「自由」に喋ったり、ポルノを観る「自由」の何処に、自分の命を懸けるに値する価値があるというのか。精神の空虚を埋めるための「絶対」がなくて何の「人生」だろう。人の生を高貴なものにし、品性を高め、勇気と活力を与え、真の安定感をもたらすもの、それは自己の命以上の絶対的価値なのだ。」。しかし「そんな価値は何処にも見つからない」というのが最大の問題だろう。三島にも見つけられなかったのだ。彼が死の直前に見つけたふりをした対象にはとても命を懸ける気になれない。彼の主張は「神が無ければ、神を作らなければならない。」というドストエフスキイの言の日本版だが、「葉隠」の著者はロシアの農民の如く、もっと素朴に確信していたはずだ。三島の葉隠礼賛は「ニヒリストが苦し紛れに逆立ちしてしまった。」ようなものだと思う。「仮設」的な「絶対」などは、あまり役に立たない。「虚構の絶対」に捧げる生ほど空虚なものは無い。
「死」から覚める「生」
(2007-05-12)
作者自身も述べているとおり、山本常朝の『葉隠』は作者の文学の母胎であり、作者の生き方に影響を与え、活力の源である。したがって、作者の作品論、作家論を考えるにあたり、本書を避けて通ることはできない。
数多く著されている作者の小説の中で、一貫して提示されているテーマの一つが「死」である。「死」を一つの終局と捉えることにより、今ある「生」が瑞々しく感じられるのだが、同時に「生」は儚い夢であるというニヒリズムも横たわってしまう。本書で述べられているそれが、「死」をテーマとする作者の小説に暗示されていると思われる。
完全な「死」の選択や「死」の強制を否定する作者は、むしろその両者の関係の中で追い詰められたときに直面する緊張状態と行動に価値を見出す。つまり、そこには「正しい死」や「犬死」というような価値判断はなく、「死の尊厳」があるのみである。そして、作者の生き方、書、とりわけ自殺について考えるとき、それらのエッセンスがこの「死の尊厳」に帰着すると思われるのである。
『葉隠』は「死」を見つめることで得られる生きた哲学を説いているが、行動哲学や恋愛哲学も説いている。身嗜みや心構えなどの処世術、プラトニックな恋の極致観はそれ自体興味深いが、本書はそれについて考えた作者の解説によってさらに深い味わいを与える。
「生」と「死」、そこから生ずる人間哲学について本書は示しているが、それは時代や空間を超えて語り継がれるべきものと思われる。
おすすめ度:
後半の葉隠の現代語訳が重宝する
本書の後半に葉隠の現代語訳が付いており、それが重宝する。
日々の暮らしの中で気持ちが弱くなっているときや迷いが生じたとき、
この書を開くと奮起させられ、おのずと進むべき方向が見えてくる。
自室の本棚に常備しておきたい一冊である。
生の意義
三島由紀夫自身が座右の書として何度も読み返したと説明があるが、処世訓として佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が書いた武士の修養の書である。生との対比に死及び死の覚悟が語られている。主君に仕える当時の武士の生き様は生半可な姿勢では勤まらず、最後には切腹など自身を取り巻く環境は現代社会と大きく隔たりがあり、如何に厳しく真摯であったのかという思いがする。常日頃より死の存在を意識することにより、一瞬の生の意義をより一層意識し認識し生きなければならないということだと解釈する。
「葉隠」から生と死を考える
「葉隠」は若い時から三島由紀夫の座右の書であった。「仮面の告白」や「憂国」などの代表作でもしばしば死について触れているように、最後は爆発的な「純粋行動」に走り、予定調和のように死を選択し散っていった。
常に生きる事と同じくらい、死を考えて生活する。死はいつ訪れるか分からない。その際、惑う事無く、死を選択できるようでなければいけない。有名な、「武士道といふは死ぬことと見付けたり」だ。
勘定者、すなわち頭でっかちを否定している。損得勘定でいけば生を選択するに決まっているからだ。だから思想の上に立った死などというのは、自分を誤魔化しているに過ぎない。「葉隠」は純粋行動を理想としている。行動のなかに結果として、「忠」も「孝」も存在する。それが理想の形だ。
また死に際しては、美しく外見を飾らなければいけない。勇敢であることよりも、勇敢に見えることを大切と考える。首を切られても美しくあるように、切腹の際には頬と唇に紅を引いた。
三島の死に対してはいろいろ異論があるだろう。しかし三島由紀夫はこの書の最後で述べている。「いかなる死でも犬死というものはない」と。
ニヒリストの逆立ち
「個人主義、近代主義には心理的限界がある。人間が充実した生を行き抜くには、献身する対象が必要なのだ。自分の命を捨てても守るべき価値が必要だ。でなければ動物のウゴメキと違いがなくなってしまう。「自由」こそ献身するべき究極の価値だ、と近代主義者は言う。これは倒錯した思想だ。戦争が終わり自由がもたらされた時、そこらの酒場で政治家の悪口を「自由」に喋ったり、ポルノを観る「自由」の何処に、自分の命を懸けるに値する価値があるというのか。精神の空虚を埋めるための「絶対」がなくて何の「人生」だろう。人の生を高貴なものにし、品性を高め、勇気と活力を与え、真の安定感をもたらすもの、それは自己の命以上の絶対的価値なのだ。」。しかし「そんな価値は何処にも見つからない」というのが最大の問題だろう。三島にも見つけられなかったのだ。彼が死の直前に見つけたふりをした対象にはとても命を懸ける気になれない。彼の主張は「神が無ければ、神を作らなければならない。」というドストエフスキイの言の日本版だが、「葉隠」の著者はロシアの農民の如く、もっと素朴に確信していたはずだ。三島の葉隠礼賛は「ニヒリストが苦し紛れに逆立ちしてしまった。」ようなものだと思う。「仮設」的な「絶対」などは、あまり役に立たない。「虚構の絶対」に捧げる生ほど空虚なものは無い。
「死」から覚める「生」
作者自身も述べているとおり、山本常朝の『葉隠』は作者の文学の母胎であり、作者の生き方に影響を与え、活力の源である。したがって、作者の作品論、作家論を考えるにあたり、本書を避けて通ることはできない。
数多く著されている作者の小説の中で、一貫して提示されているテーマの一つが「死」である。「死」を一つの終局と捉えることにより、今ある「生」が瑞々しく感じられるのだが、同時に「生」は儚い夢であるというニヒリズムも横たわってしまう。本書で述べられているそれが、「死」をテーマとする作者の小説に暗示されていると思われる。
完全な「死」の選択や「死」の強制を否定する作者は、むしろその両者の関係の中で追い詰められたときに直面する緊張状態と行動に価値を見出す。つまり、そこには「正しい死」や「犬死」というような価値判断はなく、「死の尊厳」があるのみである。そして、作者の生き方、書、とりわけ自殺について考えるとき、それらのエッセンスがこの「死の尊厳」に帰着すると思われるのである。
『葉隠』は「死」を見つめることで得られる生きた哲学を説いているが、行動哲学や恋愛哲学も説いている。身嗜みや心構えなどの処世術、プラトニックな恋の極致観はそれ自体興味深いが、本書はそれについて考えた作者の解説によってさらに深い味わいを与える。
「生」と「死」、そこから生ずる人間哲学について本書は示しているが、それは時代や空間を超えて語り継がれるべきものと思われる。
